許海文 (Hsu Hai-Wen)のつくった「無題 / Untitled」を観た。

鑑賞作品:Untitled / Hsu Hai-Wen 許海文


 許海文 (Hsu Hai-Wen)のつくった「無題 / Untitled」を観た。  観た映画の批評を書いてみようと思う。批評を書くために、まず「小学生の読書感想文のはじまり」のような一文から始めよう。映画を観て感動したら、もしくはムカついたら、まず書いてみよう。映画を“あえて”言葉にすることは徒労かもしれない。実体のない何かをつかみ取りにいくことなのかもしれない。なぜなら、本来「映画を観た」ということは「映画を観た」以上の何ものでもないからだ。ただ、観客と作家という境界を越えようとするとき、 どうしても言葉が必要になってくる。私たちは先の上映会で「観客は観客のままで安心していてはいけない」と半ば暴力的に、作家側から観客側に境界を踏み越えるような言葉を使っ た。「感想」や「レビュー」という言葉ではなく、世間から無意識に忌避されている「批評」という言葉を“あえて”使った。なぜそのようなリスクを負ったかというと、映画が映画として存在するために、観客が観客として存在するために、レビューサイトなどで消費されない 「強度をもった言葉」=「批評」が必要だと考えたからだ。その言い出しっぺたちの一員である私も責任を果たすために、批評を書く。まずは簡単な一文から始めよう。

 許海文 (Hsu Hai-Wen)のつくった「無題 / Untitled」を観た。  この映画は作者自身の暗黒舞踏のパフォーマンスが記録された映画である。と簡単に言語化できてしまうような一見シンプルなつくりの映画見えるが、この映画を単なるパフォーマンスの記録ではなく「映画」たらしめている要素は何なのだろうか。この「私の中で何が映画を映画たらしめているのか」という観客が自身に向ける主体的な問いがそのまま“批評”である。  では、何がこの映画をパフォーマンスの「記録」ではなく「映画」たらしめているのか考 えていこう。  

 まずこの映画が達成していることとして挙げられるのは「肉体の質感の提示」である。ファーストカットで暗闇の中に浮かび上がる極限までそぎ落とされたミニマルな肉体。肉体は繊細な薄いヴェールをまとっている。そして、「骨のきしむような音」が聴こえてくる。 ファーストカットに「この映画を映画たらしめている要素」のすべてが登場しているのであ る。「肉体」「ヴェール」「肉体から発せられる音」この三つの要素がせめぎあってこの映画は成立している。  

 「肉体の質感の提示」という暗黒舞踏の思想を果たすために映画ができることは、動く肉体をただ撮ることではない。なぜなら、それは「アクションの提示」にしかならないからだ。あくまで「肉体に付随する音」「空間と肉体を遮るヴェール」があって初めてこの映画はファーストカットで「肉体」を観客に提示することに成功しているように思った。  ファーストカットで身体性を獲得した作者の肉体は、次の瞬間クローズアップでとらえられる。その時「床」がうつされることで、ファーストカットで「骨のきしむ音」だと思っていたギギギという音が「床のきしむ音」であったことに気づかされる。音の出どころが提示されることによって観客はつかの間の安息を得る。「骨のきしむ音を聞く」という肉体的な恐怖感から解放されるのだ。

 同時に、映画はこの時点で新たな位相を獲得している。「空間性」という位相である。「身体性」は「空間性」と対立して初めて強調される。「空間性」が提示された瞬間「肉体」と「空間」の間を漂う薄いヴェールがとてもスリリングな存在として立ち上がってくる。「ヴ ェールが肉体と擦れる音」「床のきしむ音」これらの音はそのまま「空間と肉体が触れ合う音」「肉体が空間をきしませる音」として変換され、観客に受容されるのである。  

 「骨のきしむ音」から「床のきしむ音」への変換と同時に「肉体の質感の提示」という主題が「肉体と空間の対立」という主題にとって代わる。クローズアップでとらえられる「床」が映画の空間性を担保するのである。肉体が空間を提示し空間が肉体を提示するという緊張感のある関係性がこの映画を持続させる。  その時、この映画は「物語」を獲得するのである。「孤独に肉体を躍動させる一人の人間」という物語が獲得される。映画の中で「孤独である」という感覚が表現されるとき、演者の肉体に取り囲む空間がとらえられていなければならない。肉体が床と一緒にクローズアップでとらえられたとき、「床」という空間に付随する事物が空間性を提示し、この映画は単なる「記録」を抜け出して「物語」を獲得するのである。  物語を獲得したということは「現実と虚構」という位相もこの映画は獲得したことになる。このタイミングで象徴的に演者をうつす「鏡」が登場する。実像と虚像、肉体と空間、個人と国家、自己幻想と共同幻想。この連想を読者は飛躍しているよう感じられるだろうか?ここでシアターイメージフォーラムのホームページに掲載されている作者コメントを参照したい。

 「闇の中、ゆっくりとエネルギーが感じられる身体のパフォーマンスは、社会の状況と問題を反映している。 身体を集中して動かす事で闇から現れたり、隠れたり。まるで幻のような世界に入った様である。声を纏う事が内面と外面の曖昧な境界に衝突と矛盾を生み、時間、空間などの変化が緊張、不安、固執を生じさせる。」

 曖昧な境界への挑戦のポーズ。彼女の身体から繰り出されるアクションは、あらゆる境界を突き崩さんと試みるラディカルなポーズである。  筆者が「演者」という言葉を使わずに「彼女」という言葉を使い始めたのも“あえて”である。物語を獲得することで、彼女の肉体は身体的な匿名性から脱出したのである。そこに映 されているのは紛れもなく許海文、彼女自身の肉体だ。  

 ラディカルでエキサイティングな感覚を携えたまま、彼女の舞踏は激しさを増す。突如、カメラは彼女の肉体をロングショットでとらえ彼女は何かをあきらめたかのように、床に突っ伏して動かなくなってしまう。彼女の呼吸音がここで初めて聴こえてくる。肉体の奥底から聞こえてくる呼吸音だけが聴こえてくる。今まで聴こえていた彼女の身体から発せられる「きしむ音」「すれる音」はもうそこにはない。彼女の呼吸音だけがこだましている。それが何を連想させるか推理することは、ナンセンスなことのように思われる。が、それを “あえて”言葉にすることが批評なのだと、冒頭で宣言してしまっているから恥ずかしがらず 言葉にしようと思う。私は、この深い呼吸音を聴いたとき死の間際にある人間が肺の機能を 喪失する寸前、肺の空気を一気に吐き出すあの深い呼吸音を思い出した。思い出したと書いたが、筆者は人の死に目に立ち会ったことはない。けれど、思い出したのだ。身体の停止とリンクした呼吸音。生のイメージではない死のイメージの呼吸音。彼女は身体的な運動を停止し、画面の中で死んで見せたのだ。そして彼女はゆっくりと、生まれたての小鹿のように 立ち上がろうとする。ラディカルで身体的な運動を緩慢に再開しようとする。そのポーズは、 国家や社会などの強大かつ曖昧な権力に対峙し打ちひしがれ、それでもなお立ち上がらんとする革命家のポーズだ。少し暴論すぎますか。許海文さん、全然ちがうよと思っていたら言ってください。すいません。

 動き出した身体は、光に導かれ、回転を開始する。身体的な回転は無限の反復をイメージさせ、彼女の周りを取り囲む様々な空間(スタジオを飛び出して都市あるいは国家)との融合をイメージさせられる。そして、床のきしむ音、足の裏が叩く音、ヴェールのこすれる音、 彼女の呼吸音などあらゆる身体的な音がそこに横溢している。現実と虚構の入り混じる発狂した運動がピークに達したところで、またもや彼女は動きを止めるが、床のきしむ音、足の裏が叩く音、ヴェールのこすれる音、呼吸音は持続している。動きを止めた彼女の逆さの顔は、 彼女の不穏な未来を感じさせるが、次の瞬間力強く顔を起こし、正面を見据える。それをカメラは鏡像なのか実像なのか定かではないが、彼女の顔をはっきりととらえる。その時、匿名的な身体性が個人として“ただそこに在る”記名的な身体性としてとらえなおされるのである。正面を見据え右手を上げるとき、彼女は現実の立場に立ちながら虚像と対峙し、あらゆる境界を突き崩さんと挑むのである。  身体的な運動を止めたときこの映画は終わる。彼女が身体の活動を停止し、正面を見据え 挙げた右手は世界への友愛の印かそれとも境界を打ち破らんとする挑戦者の決意か。  とてもエキサイティングで挑戦的な映画を観て興奮しました。許海文さんありがとう。

 さて、私たちも彼女のように境界を打ち破らんと試みたいと思う。作家と観客、批評と創作、劇映画と個人映画、そしてスクリーンのこちら側と向こう側。  私たちが、思い付きで台湾と日本をリモートでつないだのも「境界を乗り越えたい」とい う無意識の欲望であったのだと思う。  なので、観客のみなさん。みなさんも怖がらず飛び越えてきてください。僕は飛び越える つもりです。そして下手ですが、今、飛び越えようと頑張ってみました。


山口健太


タイトル:無題 (2020)

作家名:許海文

Title: Untitled (2020)

Film by: Hsu Hai-Wen

305 views0 comments