「フィルムズ-デイザーイントーキョー 」 
展覧会報告 

山口 健太(「ロックダウンボーイ」作家)より

 「フィルムズ-デイザーイントーキョー」の会期終了から一ヶ月が経とうとしている。筆者はこの展覧会の会場となったFeb gallery Tokyoのスタッフであり、この企画を持ち込んだグラウンド・レベル・シネマのメンバーでもある。立場上客観的な視点を持ちえない人間の一人ではあるが、会期終了から一か月という「時間」が、客観的な視点を担保してくれるだろう。

 ゴールデンウィーク10日間33作品途切れなくループ上映。この企画は何だったのだろうか。この企画は“何か?”ということと“何だったのか?”と後から思いめぐらすことは、まったく異なる位相の思考だ。

“何か?”という思考は認識しえない未来の空間と時間を想像してつかみに行くような思考であり、その思考は曖昧さを伴う。まさに雲をつかみに行くようなものだ。

 対して“何だったのか?”と後から振り返るとき、その思考はとてつもなく具体的だ。なぜなら、実際に空間に立ち会った感覚をそのまま言葉にすればよいからだ。そのような思考をベースに書き出される文章は断片的で論理性に欠けたものになるかもしれないけれど、たとえ論理が一貫していなくても、具体的な感覚に基づいた言葉だけがホンモノだ。

 ただ“何だったのか?”という断片的で論理性に欠けた言葉をそのまま書きつけるのは、読者に対してあまりに不親切なようにも感じるので、展覧会の参加作家を募る際に使った、皆で雲をつかみに行くような気持ちで書き上げた、企画概要の一節を引用したいと思う。

 

「現代の個人映画作家、日本のエクスペリメンタル映画を代表する作家、またジャンルの異なる現代美術作家による映像作品をリミックス!

さまざまな時代の作品をリミックスすることで、東京という都市の「過去、現在、未来」が混在し、ジャンルやシーンの垣根を超えた自由で開かれた空間が立ちあがる。

都市で繰り返されてきた映像という実験の歴史を辿ると同時に、作品の中で描かれている「東京」という巨大な都市の様々な様相とそのイメージの変遷を俯瞰。

 「東京物語」や「AKIRA」ではない、スクリーンが映し出す「東京の映画史」。全ての作品を「グラウンドレベル=東京という街の地上」で捉え、ジャンルの垣根を超えて新たなシーンをつくる第一歩として。」

 

 以上が、この展覧会会期以前に書き上げられた、この展覧会は”何か?”という”説明”である。実際の展覧会もこの説明から大きくずれたものにはならなかったように思う。ただ、この文章には拾いきれない「空間の匂い」のようなものがあったということも確かだ。

 会期中会場に立ち込めていた、具体的に記憶している匂いから断片的に空間の記憶を呼び起こしていきたいと思う。

 会期が始まって何日間かは会場に湿っぽい雨の匂いが立ち込めていた。湿っぽい雨の匂いは下校中の通学路の匂いだ。雨の匂いはギャラリースタッフと会場に業務を手伝いに来てくれた参加作家たちを落ち込ませた。     

 雨の匂いはそのままお客さんの足が遠ざかることを意味するからだ。けれど、真っ暗よりは少し明るい場内の空気と都市のいつもより湿っぽい空気を繋ぐように外から入ってくる雨音の通低音は、とても心地がよかった。客足はたしかに遠のいたが、湿っぽいしとしと雨の外の空気は、デイザーたちの集うこの企画にぴったりだと思った。

 そうだ、「フィルムズ-デイザーイントーキョー」の「デイザー」とは”何か?”ということも読者に”説明”しなくてはいけない。これまた、展覧会会期以前に書かれた企画概要から引用しようと思う。

「ボーッとしている間に流れる東京の時間。記憶の背景になっている景色、人、物語。

 ”Daze”はボーっとさせる、眩惑させるという意。人の揺らぎが起こす作品、作品の揺らぎが起こす人の感覚。東京を浮遊していた「デイザー」たちのステーション。

「デイザー」=「呆然と在るひと」という意味を持たせた造語。」

 唐突に何か得体のしれないイメージを目の前にした時、呆然と眺めてしまうときがある。いや、矛盾する言葉だが「呆然として凝視してしまうときがある。」と言ってしまう方が感覚的には正しい。

 湿っぽい雨の匂いを嗅ぎながら、この展覧会がそのようなあっけにとられる瞬間の連なりのようになれば良いと思った。会期の序盤、来場するお客さん=デイザーの数は少なかったが、しとしと雨の匂いとともに記憶しているこの感覚はなかなか悪いものではない。

 会期が始まり三日目くらいに晴れた。晴れろ、晴れろと祈るような気持ちでいたから多少の蒸し暑さは無視して、晴れた天気を喜んだ。筆者が晴れた中庭の風景と一緒に記憶しているのは、中庭で皆と食べたピザの匂いだ。ピザは近くのPIZZA SLICEという店で「生後睡眠ヶ月」の作家藤井アンナが買ってきた。ここのピザはとてもおいしいが「昼寝」の作家大熊誠一郎は「昔のほうがうまかった。」としきりに言っていた。そんなこと言ってくれないほうがみんなおいしく食べられるのに、と思ったが「昔のほうがうまかった。」という彼の中で美化されたノスタルジックな感覚は、彼の物だから放っておこうと思った。

 ピザを食べながら、来てくれたお客さんと中庭でしゃべった。Feb gallery Tokyoの中庭にはソナレという大きな杉の木がある。まるでソナレが皆をここに集めたかのようである。このソナレは展覧会会期中、場内の少し硬めの椅子に座り疲れした喫煙者たちの副流煙を吸いに吸ったことだろう。お疲れ様、ソナレ。お疲れ様、みんな。

 中庭で話すことと言えば、初めましての人とも、顔見知りの人とも「いま何を観てきたか」ということだけだった。会話の終わりは決まって、在廊している参加作家の「そろそろ私の映画なので場内に入って観てきてください。」という図々しいお願いだった。会期中の中庭は参加作家が常にだれかとしゃべっていて、そこではお客さんも作家もみな対等であった。作家は作品を上映し、お客さんは感想を言った。ただそれだけのことだったし、これからもそれだけのことなのだろう。そして、中庭で「これからもそれだけのことであり続けてほしい。」と思ったことをピザの匂いと味(私は十分においしいと感じた)とともに記憶している。

  記憶にこびりついて離れない匂いがある。会期が終盤に近付くにつれて来場者は右肩上がりに増えていき、場内はすっかり満員。それにともなって、汗臭い酸っぱい匂いが薄暗い場内に充満し始めた。外は季節外れの気温で、28度もあるという。そりゃ、皆汗をかくわけだ。それに場内はクーラーが効いていて、汗を瞬間冷却瞬間乾燥。汗が匂いを発する条件がそろっている。汗臭い匂いは空間をまたいで記憶を呼び起こす。よく冷えた場内と直射日光降り注ぐ中庭。お客さんが迷いながら歩いた表参道駅(もしくは外苑前駅)からFeb gallery Tokyoまでのわかりづらい道程。鼻にまとわりつくほんのりと酸っぱい匂いは、あの赤いソファ、黄色い丸くてかたい椅子、ダスキンからレンタルした30脚のパイプ椅子に人が余すところなく座って映画を「呆然と凝視している」という実感だ。汗臭い匂いは「この展覧会をやってよかった。」という記憶とともに今も鼻の周りをこびりついて離れない。

 会期中、夕暮れに嗅いだと記憶している匂いは昔嗅いだことのある寂しい匂いだ。私が小学生の時、夏休みに伊豆下田の小さな旅館へ家族旅行に行くのが恒例だった。旅行の最終日、いつも家で食べる朝食よりもだいぶにぎやかな朝食を食べ終わり、旅館を去るとき決まって同じ匂いがした。その匂いをかぐと旅行は終わりで寂しくなる。

 最近、家で同じ匂いを嗅いでふと懐かしくなったから、匂いのもとをたどっていくと、台所にたどり着いた。台所のガスコンロにはぐつぐつと沸騰する味噌汁があった。

 あの寂しくなる匂いの正体はお腹をすかした旅館のスタッフが、すこし遅めの朝ごはんのお供に大鍋に残った味噌汁を食べようとして再加熱して煮詰まったみそ汁の匂いだ。夕暮れ時、デイザーたちが最もデイザーな時間帯、Feb gallery Tokyoにも煮詰まったみそ汁の匂いが住宅街から流れこんでくる。煮詰まったみそ汁の匂いを、夕暮れ時、スクリーンを長時間眺め疲れて丸くなってもどこか充実しているお客さんたちの背中とともに記憶している。

 さてさて、このテキストもとうとう最後の段落に。

 このテキストの構成上、最後の段落は展覧会終わりの匂いの記憶について書くべきなのだろうが、あいにく展覧会の終わりの匂いは覚えていない。私はこの文章を書きながら、展覧会の終わりの匂いを記憶していないことで、このテキストが成立しなくなるのではないかと懸念していたが今となってはそんなことはどうでもよい。

 私たちの展覧会は終わらないし、始める必要もない。私が記憶している匂いはあの空間に漂っていたのだし、その匂いが今消えたからといってなんだというのだろう。痕跡を残さないと表現じゃないなんてそんな考え方はくそだ。私たちがスクリーンに照射した各々の表現が具現化したイメージは、あの時嗅いだ客足を遠ざける湿っぽい雨の匂いであり、中庭を漂ったピザの匂いであり、薄暗い場内に充満する汗の乾いた酸っぱい匂いであり、私が小学校の夏休みに旅館で嗅いだ煮詰まったみそ汁の匂いだ。そこに在っても、消えてもいい匂いたちだ。(終)